3月21日

岸政彦『断片的なものの社会学』を読んだ。冒頭の1ページからすごく引き込まれる話が載っていて、これは絶対面白いと感じて読み進めた。社会学者である著者が多くの人に聞き取り調査などをするなかで、結果的に学術的に意味のあるものではなかったけど、何か強く惹き付けるところのあるエピソードの数々が無数に記されている。この本にはそうした小さな欠片のような話の数々から派生して、著者の思考が様々な方向へと張り巡らされている。いくつもの断片から、話は“普通”に生きるということ、“幸せ”になるということ、他者と寄り添うということ、マイノリティーの人との接し方など多岐に及ぶ。『断片的なものの社会学』ではそれらの問題に対して何か明確な答えや解釈が書かれているわけではない。むしろ「どうしたらいいかわからない」といった著者の戸惑いが多々見られた。でも「どうしたらいいかわからない」こそ、僕たちはたくさん思い悩む必要があると思う。

生きているといろんな問題があって、それはときには複雑な要因が絡んでいたりもして、そして様々な性格の人がいる。だから「こういう問題のときはこうする」「ああいう人にはああやって対処する」とかって簡単に決められるものではない。そうした画一的な思考や行動はなんだか生きづらい世の中を作っていくと思う。「どうしたらいいかわからない」ものに出会うたびに「どうしたらいいかわからない」と思い悩むこと。それは世の中にはびこり、人々を不自由にする見えないルールや暗黙の了解を打ち破っていくことに似ている気がする。「どうしたらいいかわからない」と考え続けることは、ある意味で多様性を認めることに繋がっていくような気がした。

 

 

最近みた演劇、うろ覚えの備忘録

バストリオ「TONTO」は夏目漱石夢十夜」から着想を得たという作品。「こんな夢を見た」という語りから、10編のエピソードの断片が紡がれる。全く予備知識もなく、それも初めて観た劇団だったので全体像を掴むはなかなか難しかったことは事実。でも複雑な舞台装置や音楽的な要素を取り入れた表現がすごく好みだった。劇中なんども客席後方にある会場入り口のドアを開け放つ。役者が客席の中央を縫って駆け抜けるようにそこを出入りする。終わりに用意されたトークで、バストリオの主宰の方が今回の劇のテーマ(?)のひとつとして「遠くのことに思いを馳せる」というものを挙げていた。劇中、開かれた扉の向こうから通行人の話し声、車が通る音などの日常の音、演劇の外にある音が会場内に入り込んでくるのがすごく心地よかった。

 

日常が入り込んでくるという点でいえば、小田尚稔「聖地巡礼」もとてもよかった。こちらは女性2人のみによる芝居。大学時代に同じ学生寮で暮らしていた「風間」の結婚式に向かうため、「織田さん」(この漢字だった気がする)は東京から青森へ。が旅は思わぬ方向へと進んでいき、織田さんは恐山へと向かうこととなる。この「聖地巡礼」は劇場というより、絵の展覧会でも行われそうなこじんまりとしたアートスペースで上演された。その建物の通りに面した部分はガラス張りになっており、外から簡単に室内の様子がうかがえるようになっている。ライヴでも演劇でも会場の入り口側が客席になっていることがほとんどだと思うのだが、今回はその逆で、舞台は通りに面したそのガラス、つまり外の通りの風景を背景としていた。ただの町の景色が舞台装置みたいに見えた。

この劇では登場する2人が舞台上で言葉を交わすことはほとんどないし、もっと言えば舞台上に彼女たちが揃うこともほぼない。基本的に1人がステージに現れると、もう1人は上手にある会場の外へ通じるドアから退場する。そして入れ替わりで登場する際には、ガラス越しに見える会場の目の前を通りがかった普通の通行人らと同じように、外の通りを歩いて会場入り口から再び物語に戻る。その演出がすごくよかった。

話は1人が観客に向かってそのときの思い出を語りかけるような形で展開し、主に織田さんが経験した恐山への旅が劇の軸となっている。彼女は「死者への想いを預かる場所」である恐山で目にした人々(狂ったようにひたすら手を清め続ける人、震災で家族を亡くした若い男性などなど)の様子を客席に語りかける。そこで見た人物の所作が彼女の語りによって描きだされる。一方で風間1人によるパートでは、彼女の記憶のなかにある織田さんについての思い出が語られる。婚約者との初デートのエピソードへと脱線したりしながら。

劇中に人生を旅になぞらえる言葉がでてきた。織田さんは恐山へ旅をする。そこで目にした人々について話し、その様子からその人の人生に思いを馳せる。そして風間は人生のなかで出会った織田さんのことを、別の出来事へと時折脱線しながらも思い出す。そしてそのステージの奥にあるガラスは、舞台を超えた外にある現実の風景を映し出していて、たくさんの人が通りをすれ違っていく。なんだかうまくまとまらないけど、その構図というか構造みたいなものがすごく心に残って、人生ってそういうものだなーとなんとなく考えた。

 

AV女優 戸田真琴さんのコラム

AV女優 戸田真琴さんのコラム「悩みをひらく、映画と、言葉と」がすごくいい。「シン・ゴジラ」や「この世界の片隅に」を取り扱ったブログで話題を集めていた彼女。この連載記事では映画を切り口に読者などから寄せられたさまざまな悩みを取り上げていくんだそう。初回記事では名作「スタンド・バイ・ミー」を通して、そのストーリーに触れながら“友達とはなんだろう”という問いに対して彼女なりの答えを提示している。そしてその解答がとても素晴らしいのです。どのセンテンスも輝きまくってる。

世の中には“多くの人がそうしている”“いままでみんなそうしてきた”といった理由から、なんとなく成り立ってしまっている目に見えない制約や慣習がある。それらは両親や周囲の人間から意に反して押し付けられたりすることもあるし、知らず知らずのうちに自ら服従してしまっていることもあるかもしれない。今回のコラムに自分がとくに心を惹かれたのは、戸田さんがそうした目に見えないルールみたいなものを「あなたのためという体裁をもっただけの錆び付いた掟」「育ててくれた環境にかけられた柔らかい呪い」と表現していたこと・・・。とにかく多くの人に全部読んでほしいなー。

最近は普通、つまり多数派ではない人々や生き方を肯定する作品に心を打たれることが多く(逃げ恥、コンビニ人間、夫のちんぽが入らないetc)、このコラムはそういう個人的なモードとぴたっとマッチしたのでした。次も楽しみだ! 

2017 2/21

ブログを始めようと思って3、4年が経った気がする。2017年こそはという思いもあったけどダラダラとやり過ごし気づけば2月も終わろうとしている。どうせならキリのいい3月から、いや新学期の4月からと囁く怠惰を振り切っていまから書き始めたい。こんな中途半端な時期だけど。 

ずっと読もうと思っていた「虐殺器官」を積まれた本の山から引っ張り出してきて読み進めている。せめて映画化の前にはと思ったけどやっといまになって。これめちゃくちゃ最高じゃないですか! ストーリーはもちろん、なにより会話がいちいちおもしろい。あらゆるカルチャーや思想や哲学的な分野に至るまでカバーされていて、それを見せびらかすわけでもなく、会話や描写のなかにさらっと散りばめられている。早く読み終えて映画も観に行こう。

あと今日からタワレコオンラインでポイント10倍的なセールがスタート。この機会にと村上春樹の新刊、そしてオザケンの新譜をポチり。続けて今月に入ってのそのそと周回遅れで追いかけていた逃げ恥をやっと最終回まで。星野源小沢健二。そういえば昨日ナタリーでやっていたチャット企画で、オザケンceroneco眠る、かまってちゃんの名前挙げてたのなんかよかったな。ceroくんって呼ぶとまた炎上するぞ。

昨日録画してた「聞き込みバトル旅」も。テレクラキャノンボール、もっといえば芸人キャノンボールっぽさもあり。ドランク鈴木の美味しいもの食べたときのリアクションがなぜだかツボにはまってしまった。

寝る前にレンタルしてたDVDで「インサイド・ヘッド」。先週、横浜で贅沢貧乏が再演した「みんなよるがこわい」を観て、あらすじだけ知っていたこの映画のことを思い出したから。 映画のほうはライリーという少女の脳内の話。登場人物は彼女の感情を擬人化したもので、喜び、悲しみ、怒り、むかむか、びびり。

人間の頭のなかには街が広がっていて、家族、友情、おふざけ、そのほか大切なもの(ライリーの場合で言えばホッケー)など、その人らしさを生み出しているエトセトラが島々として存在している。その頭のなかの世界では、思い出が再生機能も兼ねたビー玉として保存されているし、もちろんそれを保存する倉庫や、その重要度を図って取捨選択する業者みたいなものもある。寝てる間に見る夢を製作するスタジオ、お菓子や雲でできた家があるイマジネーションランド・・・。人間の脳の働きをファンタジーとして物語化してしまうその発想の数々にしみじみといいなぁと思ったのでした。

脳内に広がる街というと円城塔の短編「良い夜を持っている」を連想したり。あ、「みんなよるがこわい」も本当にいい演劇でした。こんな感じで見たもの読んだもの聞いたものをダラダラと書いていけたらなと。