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滝口悠生「死んでいない者」 青木淳悟「私のいない高校」

を続けて読んだ。感想を書こうと思っていたけど、読み終わってから少し期間が空いてしまった。という言い訳。おぼろげながら思い出してみる。また言い訳。手にしたのはたまたまだったけれど、どこか繋がりのある作品であるように感じる。この2冊のストーリーを人に説明するのはなかなか簡単ではない。言ってしまえばどちらにも起承転結といったような物語の筋は存在していない。

死んでいない者

死んでいない者

 

第154回芥川賞受賞作である「死んでいない者」は一人の老人の通夜を舞台にしており、個人の一族が20人近くだろうか、とにかく中編作品にしてはかなり膨大な数の人物が登場する。3人称で描かれているが、地の文の軸となる視点人物がその親族の間をシームレスに移行していき、さまざまな人物の思考や記憶が入り混じる。話のなかで、まるで幽体離脱するかのごとく、精神が肉体から離れ、上空からすべてを鳥瞰するといったような描写が何度か登場するよう、通夜を巡る一族それぞれの頭の中身が、まさに神の視点によって記されている。さらに面白いのが、そうした複数人物の間を移行する語り口を用いることで、過去と現在、さらには生と死の垣根を完全に取り払われている点だ。次第に話のなかでは、通夜の主役である故人の思考も、一族のそれのなかに介入してきている。

私のいない高校

私のいない高校

 

 青木淳悟「私のいない高校」もこれまた不思議な小説だ。一応説明してみると、学校として初めてカナダからの留学生を迎えることとなった私立女子高校2年菊組を舞台とした作品となっている。担任目線から、馴染みのない日本生活やクラスに溶け込もうとする留学生を軸に、彼の教師としての日々が描かれている。そう言うと、異国に舞い降りた少女が、さまざまな困難を乗り越え奮闘し、次第にクラスメイトと打ち解けていく心温まるストーリーでも想像してしまいがちだが、ここにも特に大きな物語は存在しない。

この本は3月後半から夏休みが始まる7月末まで、“担任”の目から見た学校生活が、まるで業務日誌のような形式で1日ずつ描かれている。この本の語り口は異常なまでに淡々としている。それもそのはず「私のいない高校」は実際に留学生を迎え入れた教師による記録「アンネの日記 : 海外留学生受け入れ日誌」という本を元に創作したそうで、この小説は本当に業務日誌、ただの記録のような体裁をとっているのだ。それゆえにいわゆる小説的な出来事はなにひとつ起こらない。読み始めてみると、その何も起こらなさに戸惑ってしまうのだが、しかし次第にページをめくる手が止まらなくなってくる。

その大きな理由は業務日誌という体裁上、この小説の学園生活がかなり詳細に記述されているという部分にあると思う。修学旅行といった大きな学校行事はもちろんのこと、その準備、生徒会選挙、日々の授業、全校集会、そして担任のクラスの時間割に至るまで、学校生活にまつわる瑣末な出来事が、1日ごとに描かれている。もちろんその描写は話の筋に絡んでくるようなものではないわけで、普通の小説で言えばかなり無駄ともいえる記述なわけだが、そうした精巧さが学校生活のリアルさを生み出し、そして小説の奥行きをかなり深いものにしている。

「私のいない高校」は大きな結末も向かえず、夏休みを迎えたあたりで、まるで後半のページを消失してしまった小説のようにぷつりと途切れてしまうのだが、その奥行きの深さゆえに、登場人物たちの生活はきっと続いているのだなと感じてしまうほどだ。「私のいない高校」とは物語の主人公であるところの“私”がいないという意味と、そして読み手である“私”がいない高校の物語を読んでいるという2つの意味を負っているように思う。

先に触れた「死んでいない者」もそうだが、この2冊にはやはり筋が存在していない。何度も言うように、何も起こらない小説とも言ってしまえる。しかしながら、どちらも圧倒的に面白い。それはやはり詳細な記述にあると思う(あまり上では触れなかったが「死んでいない者」の20人余の人物はそれぞれかなり作りこまれている)。起承転結に代表される物語の類型、フォーマットに頼ることはしない。しかしながら徹底的に人物や出来事、周囲の物事を精確に文字に起こしている。その作業はかなり骨が折れるものだと思うが、生活のなかにある小さなドラマを映し出すことに繋がっていくんじゃないかなと。そんなことを思いました。